「愛の浪費」
更新日:2013.6.10
マルコによる福音書14章3-11節(新P90)
牧師:深井 智朗
(金城学院大学教授・宗教主事)
「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」と人々はいいました。主イエスがある家を訪ねた時に、その家の女性が高価な香油を主イエスの頭から注いだからです。それは唐突な行動で、一緒にいた主イエスの弟子たちには理解できませんでした。この香油は、一リトラで三百デナリオンもしたというのです。一デナリというのは、その時代の熟練労働者の一日の賃金ですから、約一年分の収入に見合う金額ということです。
今日の聖書の箇所にはこの出来事をめぐって二つの愛の姿が書かれています。ひとつはこの女性の愛です。年収に見合うような高価な香油を使い切ってしまうのです。見返りを考えたり、計算をしたりするのではなく純粋に捧げてしまうのです。もうひとつの愛の姿がここには書かれています。それは弟子たちの愛です。おそらくそれはイスカリオテのユダだったでしょう。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」というのです。高く売って、貧しい人々に施すことができたというのです。確かにそれは正しい。チャリティーの考えです。多くの人を救えます。ユダは大変現代的な人です。物事をお金で換算するのです。それに基づいて損か徳か判断する。ユダは何とキリストの命さえそうやってお金に換算して売ったのです。彼は主イエスの命が銀貨三〇枚だとすぐに計算したのです。それは実は当時の人間売買、つまり奴隷ひとりの売買の金額でした。
ここには二つの愛が描かれているのです。それは愛のためにすべてを差し出してしまう生き方と、愛をお金に換算するという生き方です。私たちはどちらの愛に生きるのでしょうか。私たちが知っているのは、人間を救うためには、愛するひとり子の生命さえも惜しまない神の愛です。それは無駄遣いと思えるような、浪費される愛です。キリスト者とは何か。それはこの愛の浪費の意味が分る人たちだということです。
(2013年6月2日礼拝説教より)