「復 活」
更新日:2013.4.8
マルコによる福音書16章1-8節(新P97)
牧師:米倉 美佐男
「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(6節)
マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは安息日が終わるのを待って、主イエスの亡骸に用意した香油を塗るために墓に向かいました。墓に着くと、不安に覚えていた大きな石は転がしてあり、急いで中に入ると、イエスのご遺体は無く、そこには、白い長い衣を着た若者が右手に座っていました。
その若者は「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あのお方は復活なさって、ここにはおられない。」と言うのです。そして弟子たちにもこのことを知らせなさい、主がかねて言われたとおりガリラヤでお目にかかれると。彼女たちは正気を失い、恐ろしさで墓を出て逃げ去りました。震え上がりだれにも何も言えませんでした。イースターの朝に告げられたことは、墓が空であった。ナザレのイエスは復活されたと言うことです。その出来事は通常の感覚では理解し難いことでした。けれども、ここに大きな真実があるのです。
女たちは十字架におかかりになり、死なれた主イエスを捜し求めて墓に行ったのです。しかし、彼女たちが主の亡骸を求めたのは過去を求めることでした。懐かしい思い出を求めてもそこには本当の救いはありません。見出したのは空の墓でした。懐かしさは粉砕されました。しかし、聖書は語ります。過去を懐かしむ在り様は粉微塵にされますが、福音は過去に縛られるのでなく今に生きる希望、喜びを与えてくれることを。復活の希望は過去の空しさを打ち砕き、今を生き生きと喜びを持って生きる力を与えてくれるのです。本当の救いがここにあるのです。み言葉を信じる者には失望、絶望ではなく希望の喜びが与えられるのです。それが福音です。
(2013年3月31日礼拝説教より)