「与えられた杯」
更新日:2013.3.18
ヨハネによる福音書18章1-11節(新P203)
牧師:米倉 美佐男
レントの第4週です。今朝の聖書箇所は主イエスがゲッセマネの園で弟子のユダの裏切りで捕えられるという出来事が記されています。ゲッセマネという地名はここにはありません。「園」であったと書かれています。主イエスは弟子たちと度々ここに集まり夜通し祈っていました。「与えられた杯は、飲むべきではないか」ともだえながら祈られたのです。
1節を見るとキドロンの谷の向こう側の園と書かれています。先に申したように名前は記されていませんがゲッセマネ(油しぼり)と呼ばれるオリーブの木のおいしげる園です。ユダもその場所をよく知っていたのです。彼は兵士やファリサイ派の人々を引き連れてきたと記されています。「だれを捜しているのか」、主イエスの方から問われます。彼らが「ナザレのイエスだ」と言い、主が言われます。「わたしである」(エゴー エイ ミー)、その言葉は5,6,8節と3度、出てきます。「だれを捜しているのか」が4,7節に、「ナザレのイエス」も5,7節と2度ずつ出てきます。ヨハネはここでイエスとはだれか、イエスがどのようなお方であるかを明らかにしています。
十字架につくために主イエス自ら積極的に捕えられている。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」(10・17)。復活するために命を捨てると言われました十字架という苦き杯を嫌々飲むのではなく、罪人の救いのために自らを献げてくださった。それが主イエス・キリストです。十字架は私たちの罪を私たちに代わって主が引き受けてくださったしるしです。私たちが神の民として再び生きることができるように私たちをとりなしてくださった。弟子たちは復活の出来事を自分の事とした時に、主イエスが語っておられたことを正しく知ることができたのです。十字架と復活の福音によって。
(2013年3月10日礼拝説教より)