「待望の主が来られる」
更新日:2012.12.10
マラキ書3章1-5節(旧P1499)
牧師:米倉 美佐男
「あなたたちが待望している主は 突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」(1節)。
今日からアドベント(待降節)に入りました。アドベントは主の到来を待つ時です。与えられたマラキ書の3章には「あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。」(1節)と記されています。この書の時代背景は、バビロン捕囚後であり、神殿再建(515AD)はすでに過去のこととされています。マラキに示されているのは神に信頼を持てなくなった人々を再び神へ立ち帰らそうとしたことです。神殿が再建されたのに、ハガイやゼカリヤが約束した神の栄光は到来しない。依然としてペルシャ支配から解放されない、苦しみから抜け出すことができない状況の中で終末的待望を求めたのです。
二代、三代と時が経過し、最初熱心だった信仰、張り詰めた信仰が緩んできます。いつまでこのような状況が続くのか、いつこれらの不自由さから解放されるのか。先行き
が見えない不安が支配します。礼拝を熱心にしても何の意味も見い出すことができない、信仰生活の中に虚脱感、脱力感が感じられ、どこか神様が遠く感じるのです。
「あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても 何の益があろうか。」(14節)、さらに「むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え 神を試みても罰を免れているから。」(15節)。
自暴自棄になり、真面目にやっていることが馬鹿馬鹿しくなります。神に対してつぶやき、愚痴を言うのです。一種の虚無主義(ニヒリズム)の世界です。預言者は語ります。主はその聖所に来られる。この礼拝の場に。その時がいつ来てもいいように準備をして待つのです。突如、思いがけない時に待望の主は来られます。神のご意志によってその時は実行されます。インマヌエルの君が来られる。はっきり言えるのは、我々の計画に従ってではなく、神のご意志によってそれは来るのです。私たちはただ備えるだけです。神の到来は裁きを伴います。だれもそれを免れることはできません。「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある、」(20節)。主イエスを信じ、神の憐れみを信じて、主の到来を待つ者に与えられた特権があるのです。
(2012年12月2日礼拝説教より)