札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「イエスはまことのぶどうの木」

更新日:2012.12.3

ヨハネによる福音書15章1−10節(新P198)

牧師:米倉 美佐男

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1節)
今朝は収穫感謝日礼拝です。CSと一緒の統合礼拝です。今、目の前にたくさん秋の実りの果物が置かれています。秋は実りの季節で野菜や果物が多くとれます。恵みをお与えくださった神様に心から感謝いたします。秋にとれるおいしい果物の一つににぶどうがあります。今日はぶどうのお話をします。読んでいた箇所に何て書いてありましたか。ここは有名な「ぶどうの木の譬話」です。イエス様は御自分を「ぶどうの木」と言われました。聖書では「ぶどう」はとても身近な食べ物です。食べたり、ジュースで飲んだり、ワインというお酒にして飲みました。

「ぶどう」は旧約聖書では神様の民、イスラエルの象徴です。たわわになった実から繁栄を現しました。イスラエルが神様に背く時は、酸っぱいぶどう、食べられないぶどうと言われます。詩編80・8「あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出し、もろもろの国民を追い出して、これを植えられました。」とあります。イエス様の時代のユダヤで造られた貨幣にもぶどうの絵柄があります。それだけ身近ものでした。預言者たちは神様から期待されて良い実を結ぶはずの実が、とんでもない出来損ないのぶどうになってしまった。神様の期待を裏切るような、不信仰な有り様になっていることを警告しています。(イザヤ5・1、エレミヤ2・21、エゼ15・2、19・10)。

ここで覚えて頂きたい大切な言葉があります。それは「つながる」という言葉です。ぶどうがおいしい実をつけるにはつるから離れてはできません。おいしい実をつけるためには、ぶどうのつる、枝につながっていなければなりません。根からしっかり水分、栄養をとり、太陽の光をしっかり浴び、おいしい実をつけるのです。9、10節の「とどまる」も同じ言葉です。イエス・キリストにつながる、とどまっていることが大事なのです。そして「実を結ぶ」のです。実を結ぶのはわたしたちの力、努力でなく、イエス様につながっているからだと聖書は教えています。
神様の力で実を結ぶのです。そこに人間の入り込む余地はありません。「私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば」願うことはかなえられるのです。主イエスを信じ、主と共に歩む時、必要なものはすべて与えられます。主につながっていましょう。そして与えられている多くの恵みを感謝して受け止め、この恵みを自分だけのものにしないで多くの人々に分かち与えましょう。

(2012年11月25日礼拝説教より)

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