「洗足」
更新日:2012.10.9
ヨハネによる福音書13章1-20節
牧師:米倉 美佐男
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(14節)。
「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(1節)。新しい転換部分の最初の出来事が最後の晩餐の時の「洗足の話」です。「わたしのしていることは、今はあなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」(7節)、そして「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。」(12節)と言って「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」(17節)。そして最後にイエスを裏切るイスカリオテのユダのことが書かれています。
夕食のとき、既に悪魔はユダに臨み、イエスを裏切る考えを抱かせていたと書かれています。ユダの裏切りは次回に出てきますのでここでは省略します。ここでスポットを当てたいのは洗足のことです。3節には主イエスは父なる神によって与えられた御自分の務めをはっきりと受け止めた上で食事の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められたのです。「主であり、教師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(14節)。先に言われたように主の行為は今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる、と言われました。聖書が言うのは、経験をつめば分かるわけではなく、聖霊の導きがなければ分からないということです。
洗足の話は、主が神のもとに帰ろうとしていることを悟り、とあるようにそのような状況の中で主イエスがなさった行為であったことです。ペトロは調子に乗り、どうせなら足だけでなく手も頭もとの言動に対しては、洗足が主の行為であること、主の行為の絶対性がなければ我々の罪は贖われず、キリスト者になれないと厳しく言われました。もし、主が洗ってくださらなければ、主と何のかかわりもないことになる。既に体を洗った者は、全身清い。足を洗う行為によって示されたのは、罪の赦しの行為でありました。わたしたちの主人はイエス・キリストです。そのことを信じて従うのです。そこに幸いがあるのです。私たちが得る幸いは主の愛に根ざしているのです。洗足の行為は限りなきへりくだりと、極みまで愛する愛の業の実践です。主イエスに結ばれて主の弟子として生かされましょう。
(2012年9月30日礼拝説教より)