「世を救うために来た」
更新日:2012.10.1
ヨハネによる福音書12章36b-50節
牧師:米倉 美佐男
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。」(44節)。
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。この後主イエスは十字架の時まで一般のユダヤ人の前では話をされることがありません。
ここには二つのことが書かれています。多くのしるしをユダヤ人たちの前で行われたが、彼らは信じなかったこと。そしてイエスが叫んで言われたことです。叫んで言われたことは大事な事をお話になる時の言い方です。
福音書の記者は主イエスの十字架へ向かう最後の段階で改めて大きな問題提起をしました。初めからあった神の言葉であるイエスが世にきたのに、ユダヤ人は、世と共に主を受け入れなかった、受け入れた者たちも確かにいました。ただ、ここでは何故ユダヤ人たちがイエスを信じることができなかったかを問題にしてます。聖書や、神のことを誰よりも知っている者たちがイエス・キリストを受け入れることができなかったのか。ヨハネはこの書の最後にこの書の目的を記しています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と。すなわち、信じて洗礼を受けるためなのです。
ヨハネは言います。ユダヤ人の不信仰な姿勢は既に預言者が指摘していたと。預言者が語った通りイエスが預言されていた救い主であると言います。もう一つ付け加えるとイザヤの預言には、救い主が来られたのにユダヤ人が信じなかったので、救いは異邦人に広がって行ったのです。そしてすべてが神のご計画であると。イザヤは「イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語った」(44節)のです。今、この時、正しく「イエスの栄光を」見ることのできる者とはだれなのか。周囲が何を言おうと世間体を気にしないで主を正しく告白することが求められます。人からの誉れでなく神からの誉れを求めるのです。
十字架で死なれたことこそ神によって現される栄光です。それがわからないユダヤ人たちはすでに裁かれています。彼らが心をかたくなにしたことも神の裁きです。イエスを拒む者は終わりの日に裁かれる(48節)。単純な信仰が望ましいと思うことがあります。信仰が生活に現れることが大切です。頭ではいいことを言うと理解しても、自らの生活を主に明け渡すことができないならば、信仰と実生活は結びついていません。神の誉よりも、人の誉を求めているからです。
(2012年9月23日礼拝説教より)