「日々新たにされて」
更新日:2012.9.24
コリントの信徒への手紙二 4章16-18節
牧師:米倉 美佐男
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人は」衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人は」日々新たにされていきます。(16節)。
旧約聖書コへレトの言葉に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」(12章1節)と記されています。年をとり、若い時と違って、だんだんと腰も曲がり、力も無くなり、目は見えにくくなり、耳も聞こえにくくなる。そんな時がきてから、何もない、夢も希望もないと言わないように、若い時にしっかりと主なる神を信じて生きなさいと、伝道者は言います。先ほど読んで頂いた、新訳聖書のコリントの信徒への手紙4章の16−18節も短い所ですがしっかりと老に対する備えが記されています。
「外なる人」が衰えていくとしても落胆しない、なぜなら「内なる人」は日々新たにされていくからです。それがパウロが勧める信仰です。そのようなことが可能なのか。そのようなことがあり得るのか。あるのです。それが信仰の秘訣だと彼は言います。年と共に、肉体は衰えます。肉体だけでなく心も同じように衰えます。ただパウロは、年を取って老いてきたことを嘆いているのではありません。確かに伝道のために肉体を酷使し、衰えを感じてはいるのです。しかし、彼にはそれらを乗り越えることのできる大いなる秘訣がありました。それは「キリストによって何事でもすることができる」という信仰です。主の十字架の贖いと復活の信仰によって、日々新たに生かされているのです。肉体の衰えは隠せなくても、信仰によって内なる命は日々新たにされているとの確信が彼にはありました。
17節は伝道の生活の中で生じた困難もキリストに捕らえられ、永遠の命に至ることのできる希望によって十分克服できるという証です。彼が大事にしているものがここにあります。「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永遠に存続する。」見えないものとは信仰です。信仰に注目するならば、見えるものすなわち現実にある伝道の困難だとか、肉体の衰え、名誉が傷つけられたとかいうようなことは乗り越えられるのです。隣の人の顔が見えない、だから不安だということを聞きます。信仰的にいうならおかしい。見えるから安心、見えないから不安というのは信仰的ではありません。わたしたちの信仰の先輩たちはこの見えないものを信じて主イエスの御元に帰られました。私たちもその後に続いて主の御元に帰ることのできる道へと招かれているのです。わが国籍は天にあり、その天に宝を積む者となりましょう。
(2012年9月16日礼拝説教より)