「光の子となるために」
更新日:2012.8.19
ヨハネによる福音書12章20-36a節
牧師:米倉 美佐男
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)。一粒の麦はそのままでは一粒のままである。けれども蒔かれて地に落ちるとその一粒から芽が出て多くの実を結ぶ。それは主が十字架で死なれ、それによって多くの者たちが救われ、永遠の命を与えられて生かされることの喩えです。それが主に仕える者たち、教会のあるべき姿です。主の体である教会は、ユダヤ人も異邦人も共に主の十字架を仰いで生かされるのです。仕えようとする者は、主に従い、主を礼拝する者として生かされるのです。「人の子が栄光を受ける時が来た。」。今やその時なのだと主が宣言されたのです。
27節「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか、『父よ、わたしをこの時から救ってください 』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」ヨハネの福音書の中にゲッセマネの祈りはありません。ただこれはあのゲッセマネでの主の祈りそのものです。十字架を思い、受け入れながら主御自身は真の人として苦悶されました。避けることのできない十字架の死は神の決定事項、定めです。主は苦しみながらご自分に課せられた務めとして十字架に進んで向かわれ、父なる神の栄光を現されました。それは神のみ声によって確かなものとして成就されたのです。
十字架はこの世の裁きが必然であることを示しました。そのために人の子はあげられたのです。人の子とはだれのことか。そのことが大きな問題でした。旧約では人の子とは再臨のメシアを表します。ヨハネでは真の神にして真の人という、キリスト論がここにあります。群衆にとっては十字架にかかって死ぬような神など神ではない。それがこの世の受け止め方です。けれども人の子の到来によっていよいよすべてが明らかになる時が来たというのが聖書のメッセージです。その時がいつ来てもいいように、真の光を、光であるイエス・キリストを信じなさい。光のあるうちに、光を信じて生きなさいという勧めです。重要なのは人の子についての議論ではないのです。求められていることは聖書の解釈ではなく、頭の中の知的求めでなく、救われるために今、何が必要かどうしたら救われるかなのです。聖書は言います、「光の子となるため、光のあるうちに、光を信じなさい。」救われるためにイエスをキリストと信じて歩むのです。それが教会に、主から託された務めです。イエス・キリストに仕える道、従う道を歩みましょう。
(2012年8月19日礼拝説教より)