札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「私を信じる者」

更新日:2012.7.22

ヨハネによる福音書11章17-37節

牧師:米倉 美佐男

親しい者の死は近親者に大きな悲しみと辛さを与えます。兄弟ラザロの死はマルタとマリアの姉妹に大きな悲しみを与えました。主イエスが彼女たちの家に着いた時には死後数日が過ぎていました。マルタは主イエスに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」もしいてくださったらと言う彼女の言葉に期待と嘆きが込められています。
さらに続く主との会話の中で、ラザロは復活するという主のお言葉には「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」と答え、最後には「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と信仰の告白をしています。

続くマリアもまた姉と同じ言葉を語り、主の足もとにかけよりひれ伏します。これもまた主を礼拝する姿です。悲しみの中にも姉妹は主を信じて礼拝する姿を失ってはいませんでした。片や動きでは動と静の対照的な二人ですが主に対する信頼、信仰の姿勢は見事に一致しています。
主イエスは彼女たちを憐れまれ、彼女たちが泣き、一緒にいる者たちが泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮した、非常に感情の起伏の大きな姿を見せておられます。愛する者たちへの同情、あるいはご自分の歩まれる十字架を思い、悪しきサタンとの戦いにおける憤り、それらをイエスは隠すことなく、涙を流しその悲しみにある者たちの気持ちに触れられて寄り添ってくださるのです。
そこにイエスというお方のかけがえのない大いなる力が示されます。この箇所も神が共におられる、インマヌエルの信仰があるのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」。この問にどう応答するかが大事です。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」姉妹の信仰はまさに愛する兄弟を失った中で示されたものであり、その信仰がある限り主はわたしたちに必要なものはお与えくださるのです。何よりも、泣く者と共に泣き喜ぶ者と共に喜んでくださるお方がここにおられるのです。それが我らの主イエス・キリストなのだという信仰がここに証されているのです。結果を見て信じるのでなく、主の与えてくださる約束を信じて歩むのです。

(2012年7月22日礼拝説教より)

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