「神の栄光のための死」
更新日:2012.7.8
ヨハネによる福音書11章1-16節
牧師:米倉 美佐男
「ある病人がいた。」その人はマリアとマルタの住むベタニヤ出身のラザロでした。自分の髪で主イエスの足をぬぐったマリアたちの兄弟でした。姉妹は兄弟が重い病気を主イエスに伝えます、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」5節でも「愛しておられた」、11節では「わたしたちの友」と主ご自身が言っておられますから主イエスとはごく親しい間柄であったのです。報告を聞いたイエスは申します、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)主イエスはラザロの病気の報告を受けてからすぐにその元に行かず、なお二日間同じ所に滞在し、弟子たちにユダヤに行こうと言われます。弟子たちは、ラザロのことは気にかかるし、ましてや殺されそうになった危険なユダヤになぜ戻るのかとの思いがありました。
「昼間は12時間あるではないか。」(9節)の言葉は夜がくれば働けなくなるから明るい昼の間にすべきことを済ませておこうということです。それは主が十字架におかかりになるまではまだ一時あるから、あわてず、怯えず、なすべきことを今のうちにしておこうということです。昼の間に、主イエスという光がある間に。今、イエスという光をしっかりと持ちなさいというのです。限られた時間の中でクリスチャンとして何を第一とするかが問われるのです。何を今すべきか、何を後回しにするか、求めるべき光を失って、世間と同じ順位をつけて、キリスト者としての礼拝、献げる生活を付け足しのようにしては確かに忙しくて時間がなくなるのです。12時間あるのだから焦らず、あわてずやればいいというのはそういうことです。
しかしその間にラザロは死にます。主は死んだラザロを生き返らせます。この時も弟子たちは主のことを正しく理解することができません。主がラザロは眠っているから起しに行くと言うと、眠っているなら助かるから起しに行かなくてもいいでしょう、といった具合です。弟子たちは主の真意を分からないまでも分かろうとする姿勢すら持てないのです。ラザロの死は主の復活の先取りです。そしてこれが決定的な事となってイエスを十字架につけるプログラムが完成するのです。ユダヤへ行こうと言われたのも十字架を暗示しています。だからトマスは16節で「わたしたちも行って、一緒に死のう」と言ったのです。「あなたがたが信じるようになるため。」主を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。神の栄光のための死は十字架の救いです。
(2012年7月8日礼拝説教より)