「主よ、信じたいのですが」
更新日:2012.6.3
ヨハネによる福音書9章35-41節
牧師:米倉 美佐男
シロアムの池で目を洗い、生まれつき見えなかった目を癒された人はファリサイ派の人たちから外に追い出されてしまいます。彼はユダヤ教から破門されたのです。彼はユダヤ人社会から追放されました。理由は癒されたのが安息日だったからです。しかしそれは彼の責任ではありません。彼がユダヤ人たちの求めに迎合、協力しなかったから嫌がらせを受けたのです。
それをどこで聞かれたのか、主イエスはわざわざ彼に会うために来られました。そして彼に聞かれます。「あなたは人の子を信じるか」、彼は答えて「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と言います。
自分を癒してくださった方がだれなのかを当然彼は知りたかったでしょう。イエスが問われた時、彼はまだ癒してくださった方を直接は見ていません。名前はイエスというお方であることを聞かされ知っていただけです。「その方を信じたい」それが彼の本心です。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と主イエスは宣言されました。今イエスを目で直接見ているこの人は、少し前まで見ることができなかった人でした。その人が今は見えるのです。何を見たかが大事です。彼は癒してくださった方ご自身を見ることができたのです。その時彼はその場でひざまずきました。それは礼拝の姿勢です。彼は「主よ、信じます。」と告白したのです。まことの救いを見た喜びの告白でありました。目が見えなかった時は人々からの援助にすがって、人々の好意にすがって生きるしか方法はありませんでした。主に出会ってからの彼の変化は驚くべきものがあります。彼が見たのは救いを与えることのできるお方でした。見たとは信じたことです。見なければならない唯一のものを見た時に人は信じる者へと変えられるのです。だから彼はキリスト・イエスを礼拝したのです。
(2012年6月3日礼拝説教より)