「何を誇りとするか」
更新日:2011.3.26
ローマの信徒への手紙5章1-11節
牧師:榮 英彦
思いを超えた大きな災害が東北・関東地方を覆いましてから二回目の日曜日を迎えました。このように整えられた礼拝を献げることが許されたことを恵みの賜物と感謝すると共に、災害地にある方々に平安を祈ります。
祈りがある!このことを深く覚えたのは、私の牧師としての務めについてから2年目の年末に経験した街の三分の二が消失すると言う「大火」の事実によると覚えています。何もかも失った方々に語る言葉は、「主は我が牧者なり、われ乏しき事あらじ」しかありませんでしたし、語れませんでした。この神様に祈り・頼る他ない!との思いで今回の震災報道を受け止めています。その中に、「わたしの手が短くて救い得ないとでも云うのか」との囁きを聞くのです。また「信じる者は慌てることはない」と。日々、御言葉に生かされつつ示される次の主の示しを待ちたいと祈るものです。
さて、備えられた人生の歩みに「幸いを求め、痛みを避けたい」社会の通念に対し聖書は「苦難をも誇る」と語っています。これは、イエス様の歩みに焦点を置く信仰者の姿勢にほかなりません。私のためにイエス様は死んでくださった、そして、その死の中から甦り(真のいのち)への道を開いてくださった、その道を歩んでいるのが信仰に生かされている者の姿勢である。聖書は常にそれを示してやまないのです。現実的に、聖書の言葉に生きようとするならば困難とぶつかります。不可能とさえ思われます。然し、その中にも、猶、御言葉に生きようとするのは、主が歩まれたあの十字架を超えて開かれた「復活」の道への招きがあるからです。この死を超えた真のいのちをこそ、常に私達の誇りとしつつ日々の歩を整えましょう。
(2011年3月20日礼拝説教より)