札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「主の憐み受ける安息の日(マタイ㊿)」

更新日:2025.3.31

マタイによる福音書 第12章1-14節

小林克哉牧師

安息日にイエスさまと弟子たちが麦畑を歩いていました。空腹を覚え、弟子たちは麦の穂を摘んで食べました。それを見たファリサイ派の人々が非難しました。安息日に、麦の穂を摘むのは、収穫作業や脱穀作業という仕事であり、安息日規程を破ったと非難したのでした。
それに対しイエスさまは「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」(7-8節)と言われます。イエスさまは、神が安息日を定められたのは、神の憐れみの心によるものであると言われます。主なる神はわたしたちに真の安息を与えられたいのです。
続いて、安息日の会堂でのいやしの出来事が記されています。いやしは、医者などの治療行為と同じであり、安息日に仕事をすることになるからいけないと考えられていたのです。主の憐れみによりいやされるなら、それこそ神からの安息を得ることになるのではないでしょうか。イエスさまは言われます。「手を伸ばしなさい」(13節)。安息日、この人は主の憐れみを受けいやされました。
以前、ある方が病気になり入院、しばらく礼拝に来ることができなくなっていました。ある主の日、教会員が車で迎えに行き、礼拝にやって来られました。礼拝後、「先生、生き返りました」と言われました。本当だと思いました。
わたしたちの安息日は礼拝の日です。神さまの御もと、イエスさまの御もとに来て安息するのです。礼拝において御言葉を与えられ、主の愛と恵みに包まれ、神の憐れみを受けるのです。まことの安息は、イエスさまの十字架なしには実現しません。十字架により罪赦され、罪と死、悪の力から救われ贖い出され安息することができるのです。罪や欠けを責められることなく、不安や恐れに心覆われることなく、神の愛と憐れみが向けられている安らぎの中に置いていただけるのです。それがイエスさまの十字架により与えられる天の国の恵みであり、礼拝において経験する安息なのです。それは主の憐れみによることなのです。アーメン

(2025年3月23日礼拝説教より)

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