「思い出す」
更新日:2011.4.17
ヨハネによる福音書12章12-19節
牧師:米倉 美佐男
今日は棕梠の主日です。教会の大事な祝祭日イースター礼拝に向かって歩む第1日目です。主イエスの十字架を前にしての出来事がここから始まっています。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書がみなキリスト教信仰の中心である十字架と復活の出来事を記しているのです。今日お読みしたヨハネによる福音書の12章12節のところからまさにイエス様が最後の時を送られる始めが書かれています。
聖書を読んでいてふと気付くことがあります。それはそのような大切なことが起こるに際してイエス様の言葉が記されていないという事です。信仰にとっても私たちの生活にとって必要な教訓的なものは何も書かれていないのです。
私たちが教会に来て求める時、何か言葉を聞けるはずだ、聞きたいものだ、そんな思いを持って聖書を開きそして自分の思いに一致するところがあると、だから聖書は大切だという思いに満たされますけれど、そのようなことは何も記されていないのです。そのことは私たちがイエス様に何を求めるのかということに深い示唆を与えているのです。
過越しの祭りの始まりの中で人々が期待していたのは何であったのでしょうか。
イエス様は私たちの弱さを担って私たちのところに来られました。十字架につけよと叫ぶ者の救いのためにも来られたのです。傷んだ人の傍に黙って立たれるのです。それはエルサレムに入城される時からの主のお姿でした。主イエスは黙ってその重荷を負われます。そうであるから私たちも黙って主に従って行くのです。それがたとえ十字架に向かっていようとも。思い出すのは何でしょう。主イエスが復活された大きな喜びの日を迎えました。私たちに与えられた人生の歩みをみ言葉の前に整えて真なる喜びを持ってイースターを迎えましょう。
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