「祝福に満ちた希望」
更新日:2011.9.18
テトスへの手紙2章11-15節
牧師:榮 英彦
私たちは、自分でなければ出来ない生活をしてます。あるいは、自分でも想像できない人生を歩んでいる場合もあります。然し私たちは必ず死にます。この「死ななければならない時」は、それぞれ人によって違います。ある人は長く、ある人には短く人生は備えられています。そうした中を、私たちは「聖書が証しているイエス様」に従う歩みをしたいと祈り願っています。
この世を生きる論理と、イエス様に従う歩みとは一致していません。信仰の戦いはそこから生まれます。「イエス様が、この私のために死んでくださった!真の命の道を開いてくださった!」との立場と違う生き方を求められるのが信仰生活といえます。あらゆる不安定な要素の中にあって、何故イエス様でなければならないのでしょう。以前に、ベットに括り付けられている病と闘っている方から「イエス様を連れてきて下さい!この紐を解いて下さい!」と求められたことがあります。どうすれば良いのでしょう。私たちは、その場で生きることを求めますが、真に何を感じどのように祈るべきでしょうか。この問いかけは自分自身にも問われています。
信仰の歴史は、一人の人物を証人として示しています。アッシジのフランチェスコと言う昔の人です。祈りの人と言われていました。この人がどのような言葉で祈っているのかを知りたいと願った弟子の一人が夜中にも寝ずにいたところ、彼は床にひれ伏し「おお主よ!」との呼びかけ以外の言葉はなかった、と伝えられています。主イエスと共なること以外に信仰の歩みは無かったのです。教会に集う私たちの基本がそこにあるのではないでしょうか。現実の教会形成を祈り求める時、種々な要素が迫ってきますがそうした中に「真の希望」を見出して励みましょう。
(2011年9月18日礼拝説教より)