「誰の前に立つのか」
更新日:2011.11.20
マタイによる福音書25章1-13節
牧師:榮 英彦
私達の生活は豊かな実りによって囲まれています。こうした中にあって、現状を当然のことと思わず、私の生命をまもるために備えられ恵みであることを感謝する者でありたいと願います。この基本的と思えることに対しても、現在では捉え方の相違によってその対処の仕方が違って対立が起こっていることを忘れてはなりません。どうして現在の生活が与えられているのか、その不思議な力のあることを思いたいものです。
私の友人のことに触れることを許してもらいましょう。久し振りに高校の同期会に出席した彼は私の隣席に座り呟きました。<司祭さんの世話係をしていた少年時代に“神父になります!”と、突然言ってしまったのだ。何も解らないままに!そしてこの道を歩むことになったのだ。>彼は、日本の大司教の一人として務めを担いました。信仰の恵みは私達にも働いています。ごく平凡なこの自分が今このように存在していること。不思議と思いませんか。
このような恵みに生かされていることを覚えながら私たちは「終わりの時」があることを知らされています。聖書はマタイ25章を通じて「その時」に触れています。結婚式を譬にして(人間の力を超えた時)の中にその時があると指摘します。その時を迎える備えをしていた者は、終わりの時が来ても対処しえたが、その場で何とかしようとしても間に合わない者もいた。表面的なことではなく、普段の姿勢こそが問われているのです。本当に大切なものを身につけてキリストの前に歩みましょう。フィリピの信徒への手紙1章9-10節の祈りを共に献げましょう。
(2011年11月20日礼拝説教より)