「命の光を待つ」
更新日:2012.4.1
ヨハネによる福音書8章12-20節
牧師:米倉 美佐男
「イエスは再び言われた」(12節)と書き始められています。話しの流れは7章からの続きです。終りの20節によると、主イエスがエルサレム神殿の宝物殿の前で話されていた時のことです。神殿の外庭から内庭に入る境内、婦人の庭を囲んで回廊があり、そこに献金箱が置かれている部屋がありました。主イエスはそこで話をされていました。時は仮庵の祭りの最中です。
イエスは言われます。「わたしは世の光である」と。続けて「私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とも言われます。「光」は聖書の中でも大切で、「命」と同じです。主はわたしはなくてならぬものだと言われたのです。主に従う者がなくてならぬもの、本当に必要な救いを持っている、と言う宣言です。12節の言葉は大変大きな意味を持っています。世は闇です。光を受け入れようとしません。世はそのままでは滅びるのです。闇の世界に救いをもたらすために光が来た。それが福音です。
しかし、この宣言を受け入れることのできない人々がいます。受け入れることができないばかりか、光の存在が邪魔で仕方ないのです。だから彼らはイエスに、あなたは自分の言いたいことを言っているに過ぎない。あなたの証は真実ではないと言うのです。そのような言葉に対して主ははっきりと答えられます。「わたしの証は真実である。わたしは父なる神から遣わされている。父なる神が証してくださる。」と。信じる者はその証を受け入れられるし、信じない者は受け入れられない。イエスは父なる神が世に遣わしたお方です。神の権威を持つお方、すべての人を照らす真の光です。このお方をキリストと信じる者が「命の光を持つ」ことができるのです。イエスを知るということは頭で考えるのではなく、信じて従うのです。イエス・キリストの光に照らされて、世の闇の暗さに埋没するのでなく、命の光を受けて光の子として歩むのです。
(2012年4月1日礼拝説教より)