「だれの罪か」
更新日:2012.5.13
ヨハネによる福音書9章1-12節
牧師:米倉 美佐男
あるところに生まれつき目の見えない人がいました。この人は生きていくために人々に物乞いをして一日中人通りの多い道端で昼の間座っていたのです。通る人たちからお金を恵んでもらうために。そこにイエス様たちが通られました。イエス様はこの人をじっと見ます。弟子たちが聞きました、「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪をかしたからですか。本人ですか、それとも、両親ですか。」。イエス様は言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と。
イエス様はきっぱりとだれのせいでもないと言われました。神の業がこの人に現れるためだと言われたのです。すべては神様のご計画です。そう言って、地面に唾をし、唾で泥をこねて、男の目に塗り、シロアムの池で洗いなさいと命じられました。言われた通りにすると、彼は目が見えるようになりました。周りの人たちはみな驚き不思議に思いました。どうして見えるようになったのか?男は言います。イエスというお方が治してくださいました。
ここで大切なことを一つ覚えましょう。それは生まれつき目の見えない人に向けられたイエス様の眼差しがあったことです。だれも見ず、無視するようなことでも、主イエスは必ず見ていてくださるのです。神様は忘れておられません。必要なものを必ず備えてくださいます。誰もが信じられないような仕方で。大切なことは自分が納得いく答えを求めることではなく、イエス様が言われたことを馬鹿らしいと言わないで、素直に従うことが大事です。お言葉ですからという信仰が大事です。難しい理屈ではなく、ただ信ずるということだけが。愚かに見えることを愚かになって信じて受け入れるのです。見える、見えると言い張らないで、本当に見なければならないものを見えるようにしていただきましょう。
(2012年5月13日礼拝説教より)