「知ること、気づくこと」
更新日:2012.6.17
コリントの信徒への手紙一 8章1-6節
とわの森三愛高校校長:榮 忍
先日、キリスト教学校教育同盟の総会に出席したところ、議場で「昨年の3・11以降、若者たちの心は想像以上に傷ついている。それを認識して対応すべきだ」との発言がありました。聴きながら、そのとおりだと思う一方、いつの時代にも若者たちは同様の不安を抱えていたのではないか、と考えたのです。本当の自分を求め、命の真実を求めて若者は試行錯誤するものです。
人間は愚かな面を持っており、自分の見たこと、認識したことを正しいと確信すると、思い上がって他者を見下すことがあります。その際、本来立ち返るべき原点を見失うのです。
主イエスは「教会」を知りません。弟子たちを率いましたが、教会はペンテコステの後に形成されていくのです。
十字架の主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちが、その事実をごまかさずに見つめ、却って、罪の赦し・福音を語る者に変えられたのが、教会の原点です。切り捨てられることを覚悟した者が、受け入れられ、愛されている招きに気づき、大きな喜びに満たされたのです。それは、自分の内側に秘め続けることができず、語り伝えざるを得ないものとしてあふれ出た喜びでした。わたしたちも、現代において、同様の喜びに招かれたのだということを、常に心に刻んでおきましょう。
パウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と記します。2000年近く前のパウロが伝える人間も、情報量が圧倒的に違う現代の人間も、共に聴くべき言葉です。
主イエスの復活を、知識において納得しようとしても困難です。これは、自分に向けられた神の愛のメッセージです。納得ではなく、信ずることで大きな意味を持つものです。その、愛の原点に立ち返ることを忘れずに、教会を立てることが求められるのです。神が働きかけによって、このメッセージが本来の喜びを溢れさせました。そこに、立ち返り、喜びを広げてまいりましょう。
(2012年6月17日礼拝説教より)