「「思いがけない平安」−危機の中で−」
更新日:2012.7.15
詩編124編1-8節
マタイによる福音書27章61節・28章1-8節
越谷教会牧師・教団議長:石橋 秀雄
札幌教会の礼拝にご奉仕させていただきますことを感謝いたします。今日の礼拝にしめされた聖書の御言葉は昨年3月11日に東日本大震災が発生して、私が震災に取り組んで行く中で示された力となった御言葉です。
「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」。「主が味方でなかったなら、この私はとっくの昔に死んでいました」。ところがこの信仰がひっくり返るような経験をするのです。その時に「神を信じるとはどういうことですか」と問われるのです。それでも、あなたは神を信じますか?と。
多くの人々が地震後の津波の恐怖の中で思いがけない体験をしています。何の希望もない、信仰が吹き飛んでしまう出来事の中で思いがけない道が示されます。絶望の中にそれでも神を信じますと告白する世界が開かれるのです。昨年の地震以来今日までひたすら主イエスの死を見つめて歩んで来ました。主イエスは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタ(わが神、わが神何故わたしをお見捨てになるのですか)」と言って死なれたのです。
人間の歴史の中に「神は死んだ」と言いたくなる出来事が繰り返し起こります。主の十字架もまた絶望の中に打ち立てられ、その後に墓に納められます。聖書は主の死を見
つめる二人のマリアを記します。「マグダラのマリアともう一人のマリアが墓に残り、墓の方を向いて座っていた」。二人のマリアがどのような姿であったかは一切記されません。彼女たちはただ墓に向かって座っていたのです。そこには絶望しかないのです。
そのような現実の中、その現実を直視する時、絶望を直視する時、それでも神を信じますという断固たる告白をする信仰が与えられるのです。二人のマリアは主の復活の朝、思いがけない大いなる喜びに満たされます。「さあ、遺体の置いた場所を見なさい」、天使の声を聞いた時に彼女たちは思いがけない平安に満たされたのです。そして、墓を背にして、絶望を背にして弟子たちのところに走って行きました。神の救いの業に熱くされて走って行くのです。奈落の底で思いがけない平安が与えられました。復活の命をいただいた新しい人生の歩みをなす者とされ、絶望し、希望を失っている人のところに走って行き、復活の主を証しする人とされるのです。
(2012年7月15日礼拝説教より)