「ホサナ」
更新日:2012.8.12
ヨハネによる福音書12章9-19節
牧師:米倉 美佐男
「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」(16節)
主イエスがラザロを死からよみがえらせたことは当時のユダヤ人社会ではよく知られたニュースでした。群衆はイエスとラザロを見るためにベタニアまで集まってきました。祭司長たち、ユダヤ教指導者たちはラザロのことで多くの人々がイエスを信じたり、イエスを支持する人々が増えてきたことを懸念して、イエスだけでなくラザロもまた抹殺の対象としました。そのような状況下、大胆にも翌日、イエスはエルサレムに入られました。
12節以下の場面は他の福音書のエルサレム入城の場面と同じです。過越祭のために都に巡礼のために来ていた人々は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を手に手に持って迎え、口々に「ホサナ、ホサナ」と叫んで主イエスを迎えます。群衆たちは祖国をローマから解放してくれるメシアとして期待したのです。しかし、主はロバの子に乗り、凱旋将軍のようにではなく、平和の君として静かに入城されたのです。十字架におかかりになるために。「ホサナ」(救ってください、主よ)、罪から人々を救う主として。栄光、神にあれ。
「弟子たちは最初これらのことを分からなかった」と初代教会は自分たちの決定的な過ちを包み隠すことなく心からの悔い改めを持って告白したのです。なぜなら、主は真の救い主として、過ちを犯した者が悔い改める時に赦して下さるからです。否、悔い改めの前に赦されたことを彼らは実感したから悔い改めざるを得なかったのです。主の赦しを得た者たちはそれまでの逃げの姿勢から変えられて、主の十字架と復活を証したのです。
周囲の騒々しい音に耳をふさがれ、心を迷わしかねない者たちです。十字架を目の前にした時に逃げ出していた者たちです。彼らがはっきりと十字架の意味を捕らえた時に、観念的な信仰から生き生きとした信仰へと変えられ、すべてを曝け出し、いかなる妨害にも負けずに、主イエス・キリストを証する人へとなったのです。幸いなことにわたしたちも主の十字架の恵みを頂き、死に打ち勝つ復活の喜びを与えられています。よみがえりの主を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。
(2012年8月12日礼拝説教より)