札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「水を運ぶ人生」

更新日:2012.9.4

ヨハネによる福音書2章1-11節

久万教会牧師:小島 誠志

この時代ユダヤでは婚礼は村や町をあげての祝い事でした。大勢の人々が押しかけ、数日間にわたって行われたと言われています。その婚礼の席にぶどう酒がなくなりました。花婿の家の面目にかかわる一大事です。「ブドウ酒がなくなりました」とマリアがイエスに告げたとき、ただ事実を言ったのではなくイエスに嘆願したのです。祈りです。
イエスのこたえはこうでした。「わたしの時はまだ来ていません」。拒否のように思われますがそうではありません。「わたしの時は」まだ来ていない、と言われたのです。

マリアの願う時ではなくイエスの時があるのです。わたしたちの願う時ではなく、イエスのこたえてくださる時があるのです。イエスのこたえてくださる時はわたしたちにとってふさわしい時なのです。だから、母マリアは召し使いたちに言いました。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。マリアは備えたのです。祈ったことについて準備をしたのです。祈った人は待つ人なのです。主の時を信じるから前方に顔を向けて踏み出すのです。何もしないで寝て待つ。それはもはや待ってはいないのです。
イエスは召し使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。召し使いたちは黙って従いました。なぜぶどう酒でなく水を運ぶのか。召し使いにはわかりませんでした。でも信じたのです。その意味は主イエスが知っていてくださる、と。信じたから黙々と運びました。

わたしたちにもわかりません。どうしてこんな重荷を担わなければならないか。どうして自分がこんな荷を背負って生涯歩まなければならないか、わかりません。わかりませんが、信じているのです。この重荷の意味は主が知っていてくださる、と。ぶどう酒に変った水を味見した世話役は花婿を呼んで言いました、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」。
召し使いたちが運んだ水が最高の良いぶどう酒に変えられました。わたしたちの日常は水を運ぶのに似ています。なぜこんな水を運ぶのか、わかりません。しかしこの水は主のもとでそっくり最上のブドウ酒に変えられるのです。主イエスの時があるのです。だから、その日に向けて、黙々と希望をもってこの水を運びます。前を向いて。

(2012年8月26日礼拝説教より)

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