「心を騒がせるな」
更新日:2012.10.22
ヨハネによる福音書14章1-14
牧師:米倉 美佐男
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1節)。
前章でペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」(36節)と問うた時、主イエスは、今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる、と答えられました。ペトロは不安になり、「なぜ」と問い、さらに「主のためなら命を捨てる」からと自分の思いの丈を告げます。けれども主から3度わたしを知らないと言われてしまいます。誰が心を騒がせないでいることができるでしょう。しかし、主イエスがここで「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしも信じなさい。」と申されていることに注目すべきです。
「心を騒がせるな」と言われた主ご自身も弟子たちの前で「心を騒がせていた」のです。ラザロの死の時に、一粒の麦の話をされた時にご自分の死を覚悟して、ユダの裏切りを告げた時にも。主イエスが「心を騒がせるな」とお命じになられる時、それは、ただわれわれの心が心配事で動揺しないように、あるいは心配するなという、感情的、気持ちの動きの表現ではなく、悪の力、悪魔的な力と対決する時の心の動きを言っておられるのです。悪魔の力と対峙するには、ただ父なる神を信ずること、子なるキリストを信ずることだと言われます。サタンとキリストの対決の中であなたがたはわたしを信じ神の側に身を寄せなさいと。人間の力ではどんなに心を騒がせても悪や死の力に勝つことはできません。けれどもキリストがいれば大丈夫、神と共に歩めば大丈夫なのです。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」主イエスは私たちのために居場所を用意してくださるのです。用意ができたら私たちを迎えに戻って来てくださるのです。ところが弟子たちは主のお言葉を聞きながら、はい分かりましたとは言わないのです。トマスは分かりませんと言い、どうして、その道を知ることができるかと聞きます。フィリポは神を見せてほしい、そしてわたしたちを満足させてと言います。いつでも人間が求めるのは自分の納得行く答えです。そのために大事なものが見えなくなるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」、主イエスは父なる神のみもとに行く唯一の道です。主イエスを信じれば父なる神も信じることができるのです。本当に救われるためには主イエスを信じればいいのです。心を騒がせず真理の道、命の道を歩みましょう。
(2012年10月14日礼拝説教より)