「栄光を見た」
更新日:2012.12.25
ヨハネによる福音書1章14節(新P163)
牧師:米倉 美佐男
「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵と真理とに満ちていた。」(14節)。
アドベント(待降節)の第3週に入りました。「その光は、まことの光で、世にきてすべての人を照らすのである。」(9節)。3世紀のカルタゴの司教キュプリアヌスは「地上に太陽が生まれる日に、キリストがお生まれになったとは、神の摂理は何とすばらしいことであろうと」言いました。
4世紀のキリスト教を代表する神学者である、アウグスティヌスは「我々は異教徒のように、太陽の誕生日としてこの日を祝うのではない。太陽さえ創造されたかたを祝うのだ」と言って、異なる宗教、習慣との違いを鮮明にし、クリスマスの本質を訴えました。クリスマスの喜びは神が人となられた喜びです。人を愛するがゆえに。神は人となられたのです。その深い神の愛を知る喜びの出来事です。神から離れることがどんなに大きな罪であることか。人間が人としての尊厳を取り戻すために、罪を赦す神の大いなる愛が、犠牲が必要だったのです。それゆえに神は人を赦し、救うために独り子をこの世に降されたのです。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(13節)。同胞であるユダヤ人たちからも見向きもされず主はシャットアウトされました。例外もありました。野で羊を飼う羊飼いたちに最初メシアの誕生は告げられました。預言者たちによってもメシヤの誕生は伝え続けられました。異邦人である東方の博士たちにもしるしが現れ、主を求めて危険な旅をし、キリストに出会えた者たちもいました。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(12節)。信じる者はみな神の子とされるのです。父なる神の独り子は主イエス・キリストだけです。主イエスを唯一の救い主と信じる者はみな神の子とされるのです。それは、神あっての私、主イエスあっての私であることを自覚させられることです。自分は自分のものという考えはキリストに捕らえられる前の自分の姿です。キリストに捕らえられた者はみなキリストのものなのです。自分のうちに神を取り込むのでなく、神の内に自分を取り込んでいただくのです。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(14節)。主が共にいてくださる。インマヌエルの君が我らの主です。私たちはその栄光を見たのです。クリスマスは失う悲しみではなく、救いを与えられた、その喜びを必要な人に与える喜びを味わう時です。栄光が主にあるように。
(2012年12月16日礼拝説教より)