「いのちと平安」
更新日:2013.1.7
ローマの信徒への手紙8章1-14節(新P283)
牧師:米倉 美佐男
「わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき御言葉を待ち望みます。」(詩編130編5節)。
アドベント(待降節)の第4週に入りました。今朝はクリスマス礼拝です。クリスマスはうれしい、楽しい日です。人々を幸せにしてくれる日です。それは救いが確かにされた日だからです。神から離れた人の罪を赦すために、神が愛する独り子イエスを私たちのためにお与えくださったからです。クリスマスは神と人との破れた関係の回復が実現した喜びの時であるのです。世を救うためにイエス・キリストは誕生されたのです。
私たちはなぜ救われなければならないのでしょうか。どうして救われる必要があるのでしょう。ローマの信徒への手紙の著者パウロは言います。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(7章24節)。パウロは大きな持病を持っていたのでしょう。肉体的ハンデそして信仰的な理由での苦しみがあったのです。彼は前の7章で自分の望む善は行わないで、望まない悪を行っている。意志はあるが実行できないと隠さないで明らかにしています。そして罪からの解放、脱却を真剣に祈り求めたのです。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(2節)イエス・キリストに属することが命へと私たちを導くのです。パウロはキリストを着るとも表現します。何を身につけるかはとても重要です。何を着るかで時には生死を分けることさえあり得ます。ファッションに留まらず、命の保護すら衣服はするのです。それと同じくキリストを身につけることなくして救われることはないというのがパウロの主張です。キリストの支配だけが、人を罪と死の支配から解放してくれるのです。
主イエス・キリストに出会うまでの私たちは本当の支配者である神を見失っておりました。自らが自らの支配者として、自分の思いや欲望によって生きようとしていたのです。主に出会い、洗礼を受けることによって古き自分と決別し、主の復活を信じて歩むことのできる者とされたのです。新たな大いなる希望をもって生かされるのです。
新たな命と平安のために聖霊が臨んでくださり、信じる者に大いなる希望をお与えくださるのです。
(2012年12月23日礼拝説教より)