「信仰とは」
更新日:2014.2.17
ヘブライ人への手紙11章1-7節(新P414)
牧師:米倉 美佐男
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」 (11章1節)
著者は大上段に振りかぶって「信仰とは」と切り出します。改めて信仰のことを持ち出すのはどうしてもその必要があったからです。既に前章の終わりの39節、あるいは10章32節から続けて読むとその流れがよく理解できます。主に出会い、洗礼を受け、信仰的に生き生きしていた頃を思い起こせ、厳しい迫害に会い、捕えられ、財産を失い、命を奪われそうになり、見世物となり屈辱的な目に会いながら信仰を失わなかったあの時のことを。
あなた方はしっかりと耐え忍んだ。それなのになぜ、今になって信仰の道から脱落するのか。信仰の先達たちを思い起こしなさい。彼らは神が与えてくださった約束だけを信じて歩んだのです。アベル、エノク、ノアたち。8節以下にはアブラハム、続くイサク、ヤコブ、モーセ、そしてギデオンやサムソン、ダビデ、サムエル、預言者たちと続きます。彼らは皆信仰を抱いて死にました。皆主イエスのことは見てはいません。ただ神の約束の確かさだけを信じてそれぞれの全生活を神の約束のもとに献げたのです。
彼らは神の約束を確信していたので、約束が成就したと信じて生活することができたのです。それゆえに彼らは神に認められたのです。自らの経験知によるのでなく、信仰の事柄として受け止めるのです。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8章24節)。
信仰とは、神が生きて働いてくださり、必ず我らの求めに答えてくださるお方だと信じることです。そのような私たちを神は喜んでくださいます。神が喜んでくださることが分かるのが信仰です。神に喜ばれることを喜びとすることができないところに信仰はありません。
(2014年2月9日礼拝説教より)