札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「神の知恵としてのキリスト」

更新日:2015.1.19

イザヤ書11章1-5節(旧P1078)
コリントの信徒への手紙一 1章18-25節(新P300)

とわの森三愛高校校長:榮 忍

クリスマスの物語と祝いの後に、比較的ひっそりとある教会暦の記念の日が「顕現日」です。東方の博士たちが、主イエスの誕生の場を探し出し、献げものをし(礼拝し)たことを覚える日で、1月6日がその日です。
 羊飼いは「救い主が誕生した」と、見聞きしたことを人々に伝えました。「新しく生まれた王はどちらですか?」と「学者たち」は尋ねました。しかし、聞いた人々は動きません。自分の問題とは受け止められなかったのでしょう。羊飼いの言葉を人々は「不思議に思った」けれども、応答はしなかったのです。メシヤ預言による待望はあったはずですが、ヘロデもエルサレムの人々も、抗争につながる怖れを感じたのか、不安を覚えても積極的には動きません。しかし、どう受け止められるかはともかく、伝えなければ知らぬままになるのを忘れてはなりません。
昨年、「ありのままで」という歌が流行りました。この言葉を教会も用いてきました。「ありのままでよい。あなたは神様に愛され招かれています」と。もちろん、その通りなのですが、招いた者を神様が用いて何をさせようとしているのかは、気にしてこなかった面があるのではないでしょうか。初めは、自分とは関係ないものとして聞き、自分の正しさを守ろうとし、対立するものを切り捨て、神を認めてもいなかった自分が、受け入れられていたと知るのは大きな慰めですし、喜びです。けれども、ありのままを続けることはできません。新たな使命に、召されるからです。神の恵みを伝える器になるのです。
人間の能力や業績ではなく、命を得てこの世界に生きていることに神の愛を見出します。それを示す「神の知恵」であるキリストを伝えることで、目を開かれ、知る者が増えるのです。十字架の言葉は愚かに見えるが、神の知恵、神の力であることを、一人でも多くに伝えたいのです。

(2015年1月11日礼拝説教より)

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