「取るに足りない僕」
更新日:2015.1.26
ルカによる福音書17章10節(新P142)
牧師:米倉 美佐男
「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」(10節)
ハイデルベルク信仰問答 第二四聖日 問六二〜六四
問六二 なぜ、われわれの良い行ないは、神に対して義となり、せめて、その一片とでもならないのですか。
答 それは、神の前にも役に立つ義は、まったく完全であって、神の律法に、まったく一致するもの、でなければならないのですが、この世におけるわれわれの、最もよい行ないでも、まったく不完全であり、罪に汚れているからであります。
問六三 それならば、われわれの良い行ないは、神が、この世でも来世でも、それに報いを与えて下さるというのに、なおも、何の値打ちもないのですか。
答 それは、その報いは、功績があるからではなく、恵みによって、与えられるものだからであります。
問六四 この教えは、人間を、無頓着な不遜なものに、するのではありませんか。
答 そういうことではありません。なぜなら、まことの信仰によって、キリストに接がれた者が、感謝の実を結ばないということは、ありえないからであります。
「正しい者は信仰によって生きる」(ロマ1・17、ガラテヤ3.11)のです。聖書には私たちが義とされ、救いを与えられるのは行いによるのではなく、信仰によるのだと言われています。そして私たちはそのことを大切にしてきました。ハイデルベルクの問答が告白された背景には当時のローマ・カトリック教会の問題がありました。免罪符のことやマリア崇拝などです。当時のカトリックの在り方に批判を持った改革者たちは、ただ聖書から事柄の正しさを聞き取ろうとしたのです。聖書を尺度として、神様の御旨がどこにあるのかを聞き、問い求めた時に、ただ十字架の主イエスとの交わりだけが私たちを救うのだと告白したのです。ただ、神の恵みによる主の十字架と復活の信仰に生きることができるならば感謝の実を結ぶことができるのです。
(2015年1月18日礼拝説教より)