「祈り求める」
更新日:2015.8.24
ルカによる福音書18章1-14節(新P357)
榮 潤子牧師
私達の信仰生活の恵みは祈ることであると思います。神様を信じ、イエス様を信じるとは具体的に祈ること、祈りがよい習慣となり、礼拝につながり、それが生活を整えているのではないでしょうか。個人的な祈りから、家族、社会、教会の祈りへと広がっていくのだと思います。
主イエスも良く祈られた、と聖書に書かれてあります。静かな所で一人で祈り、弟子達が探したこと、弟子を選ぶ前に祈られたこと、ゲッセマネの祈り等記されています。その姿を弟子たちが「私達にも祈ることを教えて下さい」と願って「主の祈り」が与えられています。
今日の聖書には主イエスが私達に祈る姿勢を示された一つのたとえが記されています。
前半は「気を落とさずに絶えず祈れ」と語られます。
当時弱い立場のやもめは自分のきびしい状況を訴えますが、裁判官はこれを聞き入れない、しかし、くりかえし執拗に訴えるやもめに裁判官はついに訴えをとりあげるだろう、と。神様の祈りもこの執拗な祈りが大切です。私達の祈りも多くの場合、あまり聞かれないという経験を持っています。これに対して主イエスは「求め続けなさい」と言われる。その結果がすぐか時がかかるかはわからないのです。「神は昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために彼らをいつまでもほっておかれることがあろうか」と言われます。
後半は「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」です。神殿に上って祈る二人の姿が語られます。ファリサイ派の人の祈りは、「神様」と呼びかけますが自分の姿勢を誇り人々に示す言葉です。しかし徴税人は目を天に上げようともせず「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈ります。主イエスは神の前に良しとされたのはこの徴税人であった、と言われます。
私達は自分をどのように見るか、自分は罪人として祈るかだと思います。しかし私達は常に二面性を持っています。罪人と言いながら、隣人の罪の自覚より自分の方が上だ、と思う高慢さがぬぐえない。神の前の自分より、人と比べる自分。神の前に罪を告白しつつ、祈る私達でありたいと思います。
今も私達は教会の課題を担いつつ歩んでいます。あきらめない祈りと共に、謙虚に祈って進みたいと思います。
(2015年8月16日礼拝説教より)