「義の実をあふれるほどに受け」
更新日:2015.10.19
フィリピの信徒への手紙1章1〜11節(新P361)
牧師:米倉 渚
今日共に読んでいただいたフィリピの信徒への手紙は、喜びの手紙と呼ばれております。パウロにとってこの教会の人々は直接に出会いキリストへと導いた特別に思い入れがある人々であったのです。パウロはフィリピの教会の人々を思うとき「神様に感謝し、喜びをもって祈っている」と断言しています。「あなたがたが最初の日から、今日まで福音にあずかっている」からだというのです。
わたしたちも信仰の兄弟や、愛する人のことを思い起すと、心の中に喜びや温かさを感じるのではないでしょうか?その喜びがわたしたちの生きる源となるのではないでしょうか?逆に、自分の存在を喜んでくれる人がいるのならば、どのような厳しい辛い状況の中にあっても、それだけで生きていけるのではないかと思わされます。神がわたしたちのことを思っていてくださる。そのことを忘れてはならないのです。
パウロは喜びの時だけでなく、人間的に見れば苦しみや困難の中にあるときでさえ、教会のことを思い、このことが主の恵みにあずかることだと思っています。獄中にいるのは一人だけの苦しみなのではなく、共同体の出来事なのだと。私たちは時々勘違いします。自分だけなぜこのような目にあわなければならないのか、だれも自分の気持ちを分かってくれない。喜びを一人占めにしてしまうことがあります。しかし、わたしたちキリスト者の恵みは、一人一人の身に起こること、教会に起こることは、その時はわからないかもしれませんが、必ず神様の益となり、恵みとなり、ご栄光を現すための備えとして用いられて行くのです。
わたしたちは、キリストの日に備える者です。キリストが来られる再臨の時、主の日は必ずやってきます。すでにキリストの日の先駆けである主の日はこの礼拝で来ています。わたしたちはキリストをお迎えする用意はできているでしょうか?
義の実とは神から与えられるものであり、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われるように、神につながっているからこそ、結ぶ実です。
今日はこれからバザーを行います。札幌教会がキリストの身体として、この地に建てられていることの証です。このバザーは札幌教会の祈りによるものだけではありません。多くの教会や団体もこの業のために祈り関わっております。そしてこのバザーの実りは東日本大震災救援の募金に使われます。神様からのあふれる実が結ばれますように。生きて働く神様の恵みにわたしたちが生きることができますように。わたしたちの心の中に神様の言葉が置かれますように。神様の愛があり、それを受け取ることができますように、祈り働いて行きましょう。
(2015年10月11日礼拝説教要約)