「御言葉の頭はまことです」
更新日:2015.11.16
詩編 119編153-160節
ローマの信徒への手紙 1章16-17節
牧師:森里 信生
「まこと」とは「アーメン」の元の言葉で「真実」という意味を持っています。ですから、これは「神のまこと」であって決して私たちの誠実さということではありません。さらに「頭」というのは体を支配しています。ですから、これを言い換えると「神のまことが御言葉の全体を包んでいる」ということになります。
このことはパウロもいっていることです。「福音には神の義が啓示され」ており、それは「信仰を通して実現される」のだ。この「信仰」は私たちの「信仰」ではなく、(詳しく述べる暇はないのですが)神の「まこと」です。私の信仰は、私に救いをもたらすほど上等ではありません。神の義が私の信仰によって実現されるとすれば、この私には到底神の義が実現しないことになります。キリストを通して顕わにされた神の「まこと」が私たちを「神のもの」として下さるのです。パウロは、これは既に旧約聖書にも書かれているとハバクク書を引用します。「正しい者は信仰によって生きる」というのがそれです。ですから、ここでも「私は自分の信仰のゆえに正しい者」ということではなく、神のまこと(いつくしみ)の中にあるゆえに、神は私たちを神のもの(正しい者)として下さっているのです。
「まこと」とは「アーメン」ということでした。ヨハネの黙示録3:14には「アーメンである方」という言葉があり、この御方はイエス・キリストのほかではありません。「私こそアーメン(真実)」といえるのはイエス・キリストのほかにはないのです。ですから御言葉はイエス・キリストを指し示す言葉であると共に、或いはそれ以上にイエス・キリストによって与えられた言葉なのです。このお方は十字架の主でいて下さると共によみがえりの主でいて下さいます。このことに「神のまこと」は十全に現れているのです。だから私たちは詩人と共に神の「命令(御言葉)」を愛しますと告白すると共に、「主よ、いつくしみ深く わたしに命を得させて下さい」と祈ることができるのです。
(2015年11月8日礼拝説教より)