札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「神との命の交わりを得よう(マタイ㊻)」

更新日:2025.2.26

マタイによる福音書 第10章32-42節

小林克哉牧師

人はみな神から与えられた命に生きています。人が生きるというのは、その人が神に創られ、神に愛されている〝わたし〟として生きることです。
〝わたし〟とはなんでしょうか。わたしたちはみな、誰かとの関わりの中でしか自分を理解することができません。赤ちゃんは親に呼びかけられ、自分が誰であるかを知っていきます。そして自分に呼びかけてくれる親に呼びかけ、〝わたし〟になっていくのです。呼ばれ・応える命の交わりの中で〝わたし〟となっていくのです。聖書は、誰よりも神がわたしたちを呼んでくださることにより、そして神に応えることによって、〝わたし〟が本当のわたしになることができるのだと教えています。
イエスさまはわたしたちに命を得させようとなさいます。神との命の交わりを得させようとされるのです。だから本当に大切なことを見失ってはならないとはっきりと言われるのです。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(38-39節)他ではなく、イエスさまとの交わりにより、神さまとの交わりによって命を得ることができるのだと言われるのです。
人が一番の結びつきを覚えるのは家族ではないでしょうか。ところがイエスさまは、イエスさまとわたししたちとの結びつきはそれ以上のものだと言われるのです。イエスさまとの結びつきがそれ以上だというのは、イエスさまのわたしたちへの愛が、家族の愛以上だということです。それが十字架に示された神の愛なのです。
イエスさまはわたしたちを救うため、身代わりに十字架で死んでくださいました。イエスさまがわたしたちを一番に愛してくださったから、わたしたちもイエスさまを一番愛するのです。実はその時、イエスさまが与えてくださった者として家族を愛するようにされるというのです。わたしたちはこの神に呼ばれ・応える命の交わりの中で本当の〝わたし〟となっていくのです。アーメン

(2025年2月16日礼拝説教より)

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