「新しい年も主の憐みの中に(マタイ㊶)」
更新日:2025.1.14
マタイによる福音書 第9章35-38節
小林克哉牧師
主の年2025年を迎えました。最初の主の日、この年も礼拝から始まり、礼拝へと向かう歩みをなしていきたいと思います。今朝の御言葉は大牧者イエス・キリストについて語ります。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(36節)主は深く憐れまれるのです。この憐れみを受けて、わたしたちはこの年を歩んでいくのです。
聖書の中には主なる神を羊飼い、その民を羊の群れとして語る箇所があります。羊は羊飼いがいないと路頭に迷います。羊は近眼で、周りがよく見えていないところがあるそうです。堅い甲羅も角や牙もなく自分で自分を守ることができません。それでいて自分をライオンのように強いと勘違いしています。食いしん坊で草を食ますと毒草までかまわず食べてしまいます。エゴが強く、すぐに群れから迷い出るのです。どうしても羊飼いが必要なのです。
イエスさまはこの時、群衆をご覧になられ、飼い主のいない羊の群れ、しかも弱り果て、打ちひしがれていると思われたのです。主は深く憐れまれました。憐れむはスプランクニゾマイという字です。単に可愛そうと言ったぐらいの言葉ではありません。内臓がひねられるとか、はらわたがねじられるといったニュアンスの言葉なのです。大切な誰かが苦しんでいたり悩んでいたり辛そうにしていると、そばに居て見ているほうも内臓がひねられるかのように苦しくなる。他人事でない。わが事、まさに寄り添い共に苦しむのです。
預言者イザヤは主なる神の憐れみについてこう語りました。「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。/女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ書第49章14-15節)
主の憐れみは、親にまさる憐れみなのです。はるかにまさる憐れみなのです。神の憐れみは、十字架によって示される憐れみです。その憐れみをもって、わたしたちは愛されているのです。新しい年もこの主の憐れみの中にあるのです。アーメン
(2025年1月5日礼拝説教より)