札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「語らずにいられぬ主の憐み(マタイ㊴)」

更新日:2024.12.16

マタイによる福音書第9章27-34節

小林克哉牧師

イエスさまが少女を生き返らせ、会堂長ヤイロの家を出られると二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(27節)と叫びながら近づいて来ました。普段生活の中で、わたしたちが誰かに対して「憐れんでください」と本当に言うことはまずないことであり、また難しいことでしょう。プライドがあり誇りがあるからです。
聖書は、真の神に向かい、主イエス・キリストに向かって「憐れんでください」と叫ぶことを教えてくれます。聖なる神の御前で、自分には何もない、神の御前に誇ることができるものはなく、かえって神の御心にそうことのできない罪があることを知るのです。神の御前における自分の情けなさ、惨めさを知るのです。そこから生まれる祈りです。
イエスさまはこの二人の盲人に御手を触れ見えるようにされました。二人が最初に見たのは、わたしたちのために十字架で死んでくださる憐れみ深いイエスさまのお姿だったでしょう。ただ肉眼の視力が与えられたということ以上に、罪を赦し、死に勝利する権威をお持ちの方、憐れみ深い主イエスさまのことが見えるようになり、出会い、信じるようにされるのです。
イエスさまはもう一つの御業をなさいます。「悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めた」(32-33節)。
イエスさまの十字架の愛、罪の赦し、永遠の命の救いをほめたたえ、宣べ伝えるようにされたのです。
イエスさまと出会う者は、見えるだけで終わらない。それを賛美し、伝えることが起こるのです。「二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。」(31節)主の憐れみは語らずにいられないのです。
アドベント、「主よ、憐れみたまえ」と悔い改めの祈りをなしつつ、わたしたちには何もないかもしれませんが、主が憐れんでくださることを信じ求め、イエス・キリストの十字架の愛と憐れみを、罪の赦し、死に勝利する福音を宣べ伝えるクリスマス伝道の時を歩んで行きたいと思います。アーメン

(2024年12月8日礼拝説教より)

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