札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「わたしたちの病を担う主(マタイ㉛)」

更新日:2024.10.7

マタイによる福音書 第8章14-16節

小林克哉牧師

主イエス・キリストはわたしたちをいやすことがおできになられます。わたしたちを健やかにし、神の御前に生きる者に変えてくださいます。主イエス・キリストはわたしたちが病み、神の御前に健やかさを失っていることをご覧になられ、それをよしとされません。わたしたちがいやされ神の御前で健やかになることを望まれ、何とかしようと近づいて来られ、御手を伸ばし触れ、語りかけてくださるのです。
いやしとは何でしょうか。病気とは健やかさを失うことです。本来はこうあるべきだ、こう生きられるはずだと思っている肉体や心、生活の状況を失うことでしょう。いやしとは何でしょうか。病院に行き病気が治ることとイエスさまがなさったことは同じことだったのでしょうか。こう記されています。「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。」(14-15節)
これがいやしです。「起き上がる」という字は復活するという時にも使える字です。古い自分に死に新しい命によみがえらせるようにして、この人は起き上がりイエスさまをもてなしたのです。「もてなす」という字は仕えると訳せる字です。「病気が治ってよかった。それでは失礼します。」これではいやしではないのです。神の前に健やかにされているとは言えないのです。イエスさまにいやされるとは、神の御前に健やかになるということです。人は何に仕えて生きているのでしょうか。自分のエゴにでしょうか。この世の楽しみや欲望にでしょうか。あるいは病であれば、その不安にでしょうか。死への恐怖でしょうか。この人は他でなくイエスさまに仕える者に変えられたのです。
十字架の愛に触れられるとき、わたしたちは健やかにされるのです。主イエス・キリストはわたしたちをいやし、健やかにし、神の御前に生きる者に変えてくださいます。イエス・キリストに仕える者とされるのです。わたしたちの病を、罪を、死を担ってくださるお方がおられます。アーメン

(2024年9月29日礼拝説教より)

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