札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「主の手が差し伸べられて触れるなら(マタイ29)」

更新日:2024.9.17

マタイによる福音書 第8章1-4節

小林克哉 牧師

イエスさまのもとに重い皮膚病を患った人が近寄って来ました。今で言う感染症対策の一つだったのかもしれませんが、当時重い皮膚病を患っている人は他の人と接触しないよう隔離することが義務づけられていました。重い皮膚病を表す字は家のカビにも使われるものであり、人体の表面にあらわれれば皮膚病にあたるとされました。感染対策だったのかもしれませんが、家族からも隔離され、礼拝にも参加できませんでした。町の外での生活を余儀なくされ、神との関係、人との関係を断たねばならなかったのです。
今なら疾患の類いであり、重い皮膚病に対して治るとかいやされると言うでしょう。しかし汚(けが)れであり、重い皮膚病は清めると言いました。イエスさまに近づいて来たこの人は言います。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(2節)。この人は清くすることができると、イエスさまに求めました。片方で皮膚病の人に対する偏見の問題があり、それは許されることでないとわたしたちは思います。しかし、この一人の人は自分の汚れ、神の前での汚れを感じていたのです。
人と関係すればその人を汚してしまう、自分は神の御前に出ることなどできない。わたしたちはイエスさまに清めてくださいと心から求めているでしょうか。自分ではどうすることもできない、神の御前での汚れを身に帯びていることを知っているでしょうか。イエスさまは手を差し伸べてその人に触れました。触れれば汚れると考えられていた時代、イエスさまはその人の汚れを、罪を、死を、そのすべてを引き受けてしまう十字架の救い主として手を差し伸べられたのです。
「よろしい。清くなれ」(3節)「よろしい」は「わたしは望む」と訳すことができます。イエス・キリストが望んでくださるのです。わたしたちが清くなることを望んでくださるのです。神との関係を回復し、人と人とが本当の関係の回復を望んでくださるのです。一人一人に対し、またわたしたちの群れに対してもです。「よろしい(わたしは望む)。清くなれ」。主により新しくされて、わたしたちは歩み出すことができるのです。アーメン

(2024年9月8日礼拝説教より)

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