札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「目から丸太を取り除けば」

更新日:2024.8.16

マタイによる福音書 第7章1-6節

小林 克哉牧師

わたしたちは一人では生きて行くことはできず、誰かとの関わりの中で生きねばなりません。人と人とが共に生きていく。そこには喜びがあり慰めがあります。しかしまたそこには争いがあり、わだかまりが生じ、悲しみや苦しみが湧いてくるのです。イエスさまは神を信じ神を愛していく中で、誰かと共に生きる道を教え、こう言われたのです。「人を裁くな。」(1節)裁かなくてもよいと。
ある人が、今の時代は家庭も学校も職場もどこもかしこも裁判所のようになっていると言っていました。親と子ども、先生と生徒、子ども同士、上司と部下、同僚で、一日何度判決を下していることでしょうか。
イエスさまは「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(3節)と言われます。目よりもずっと大きいものである丸太が目の中にあれば何も見えなくなるでしょう。それは罪のゆえに、神が見えなくなり、神にある現実が見えなくなっている状態です。罪から生じる欠けの大きさ、過ちに気づきなさいと言われているとも言えるでしょう。
わたしたちは、人を裁くことにより、まるで自分が正しいかのような錯覚を覚えます。自分を括弧に入れ上から目線で批評していると、自分は大丈夫だと思えてくるのです。上から目線ではなく、ただ神の御もとに立つのです。神の前に低くなるのです。神の御前における罪の問題は丸太、おが屑(ちり)がどうだとかと言って、他の人と比べるレベルの問題ではないのです。人と比べた結果など通じない神の義の前に立つのです。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1節)イエスさまは人を裁かなくてよいと言われます。神が裁かれるのです。そして神の裁きは十字架に示されています。わたしたちは人を裁くことからも自由になり、明日をゆだねることができるお方に、隣人をもお任せすることができるのです。わたしたちはただ神を信じ、キリストに従い、今すべきことを一つ一つしていけばよいのです。アーメン

(2024年8月4日礼拝説教より)

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