「あなたの心があるところ(マタイ㉒)」
更新日:2024.7.19
マタイによる福音書 第6章19-24節
小林克哉牧師
あなたの心はどこにありますか? どう答えるでしょう。イエスさまはこうお教えになられました。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(21節)富とは宝と訳すことができる言葉です。わたしの宝とは、いつでもわたしたちがそこに思いを寄せているもの、頼りにしているもの、喜びとしているものです。そこに〝心〟があると言うのです。
イエスさまはわたしたちの〝心〟を心配しておられます。心が定まらないというのは、生き方が定まらないことでしょう。イエスさまは言われます。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。」(19-20節)人々の賞賛や評価、それらは虫が食い、さび付き、盗まれるもの、変化しいつか過ぎ去り無くなってしまうものです。イエスさまは過ぎ去ってしまうものに心奪われてしまうわたしたちが、もっと確かなもの、神へと向かうようにされるのです。
イエスさまは目のたとえを語られます。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」(22節)「澄む」と訳されている字には「二心がない」という意味があります。過ぎ去っていくものにも心奪われ、神さまのことが見えなくなるのではなく、澄んだ目で、一心に神を見るのです。「あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」(24節)同時に、一緒に仕えることはできない事実が告げられます。イエスさまは神を愛し、神に仕える幸いへと招かれるのです。
わたしたちは、十字架によって罪を赦し贖い救ってくださるキリストを知り、キリストという本当の宝を見つけたのです。十字架の主は「わたしがあなたの宝/富になろう」と言ってくださるのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(21節)礼拝でわたしたちの心はキリストへと向けられます。わたしたちをご自分の宝だと言って、十字架で死んでくださったイエスさまがわたしたちの「富/宝」となってくださいました。そこに揺るぎない心が与えられるのです。アーメン
(2024年7月14日礼拝説教より)