「真理を知る」
更新日:2016.2.1
ヨハネによる福音書8章21-36節(新P181)
牧師 米倉 渚
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(31節)
「とどまる」というのは、ある場所に居続けることです。「言葉にとどまる」とはあまり使われず聞きなれない言葉ではないでしょうか。「とどまる」という言葉をヨハネによる福音書15章ではイエス様が言われた有名な「わたしはぶどうの木あなたがたはその枝である」という箇所で「わたしにつながっていなさい」の「つながる」という言葉で表しています。わたしたちはどこにとどまり、つながっているでしょうか?
かけがえのない一人の人間として神様から愛され、この世に命を与えられて、赦されて生かされている。そのことを信じるとき、神様にわたしたちはつながっている、イエス様の言葉にとどまっているのです。それによってわたしたちが持っている価値観やものさしから徐々に解放されていきます。自分も他人も神様から愛されてあるのだ、と生きることができるようになっていきます。イエス様の言葉によって教えられる真理が、わたしたちを自由にし、イエス様の言葉にとどまることで自由にされるのです。
聖書に書かれているユダヤ人たちも、そしてわたしたちも聖書に言われているとおり「罪の奴隷」なのかも知れません。神様に愛されていることを知らず、気づかず、自分を愛することも、他人を愛することもできなくなっている。しかし、愛はわたしたちを自由にします。愛する自由へと導きます。イエス様の言葉、神様の愛は人を罪の奴隷から自由にするのです。
ユダヤの人々もイエス様のことを本当にわかっていたかというと、わかっていませんでした。信じたユダヤ人たちもイエス様の十字架が予告されると多くの人々は去っていってしまいました。しかしここでもイエス様はご自身のことを予告されているのです(28節)
イエス様の十字架と復活によって私たちはイエス様が確かにおられることを知ります。イエス様がどのような方かを本当に知るのです。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」
不自由さやかたくなさ、こだわりを抱える私たちですが、生きて働かれる神様の力によって、憐れみによって、赦しによって生かされて、用いられていることを感謝しましょう。
(2016年1月24日降誕節第5主日礼拝説教より)