「神が見ていてくださる(マタイ⑰)」
更新日:2024.6.3
マタイによる福音書 第6章1-4節
小林克哉牧師
イエスさまは当時のユダヤ人の宗教的敬虔を取り上げられます。その代表が施し、祈り、断食でした。それらは神に対してするものであり、神への愛について語られているとも言えるでしょう。
イエスさまは言われます。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」(2節)
施しとは貧しい人に金銭や食料を分けることです。当時、安息日の会堂でそれらを集め、貧しい人々、孤児や寡婦に分配されていました。神殿で施しの献金を募るのにラッパを鳴らしていたと説明する人もあります。自分は施しをしていると分かるように行い、人々からほめられようとしているなら、それは神への愛のささげものでなくなるのでないかと言われるのです。
施しとは、神がわたしに与えてくださった恵みを、他の人と分けることです。施しは、恵みを賜う神への感謝の業であり、神の愛に対する神への愛の表れです。そうであるなら人の評価は関係ないはずです。ところが、わたしたちはこの「人の目」や「評価」の中を生きているのであり、それとは無関係に生きることが難しいのです。神への愛を表す時にさえ、わたしたちを縛り付けているのです。イエスさまはそこからわたしたちを自由にしようとされるのです。
いったいだれがイエスさまが苦しみを受け十字架につき死なれた時気づいていたでしょうか。父なる神を愛し、その御心に従っていたことに、わたしたちのために善いことをしてくださっており、贖いの死を遂げてくだったことに。イエスさまはだれにも気づかれないまま、十字架において隠された愛の業を成し遂げてくださったのです
わたしたちはこの神の愛、イエスさまがわたしたちになされた善行=義を知りました。この義を受けている者として、わたしたちは義=善行に生きるのです。人に見てもらうためでも、人から評価されるためでもなく、ただ神を愛し、神の言葉に従って生きる自由が与えられるのです。アーメン
(2024年5月26日礼拝説教より)