「神が与える共に生きる者(マタイ⑬)」
更新日:2024.4.22
マタイによる福音書第5章27-32節
小林克哉牧師
イエスさまは神によって結ばれた人と人とが共に生きていくことについて教えられます。赤の他人同士が一つとなって共に生きる。その最たるものとして夫婦の関係を取りあげられます。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(27-28節)
人と人とが共に生きていくことを破壊する行為の代表が姦淫(不倫)の罪なのです。親子や兄弟姉妹のように血縁において共に生きる存在もあります。夫婦は赤の他人同士、契約により夫と妻となります。ですから姦淫は契約を破壊する行為であるとも言えます。「みだらな思いで」とありますが、むさぼるとか欲すると訳せる言葉です。十戒の中の第十戒「隣人の家を欲してはならない」を思い出させます。イエスさまは、姦淫が、神の目から見るなら心の中の裏切りや欲望からすでに始まっていると言われるのです。
旧約の預言者にホセアという人がいます。妻ゴメルに一度ならず裏切られた人でした。それでも神の言葉を与えられ、妻ゴメルを迎えに行き、共に生き続けようとしました。その姿をもって、ホセアは偶像礼拝に陥り、主なる神に背き、その御言葉に従わないイスラエルの民に、神はそれでもあなたがたを愛している、だから神に立ち帰れと語り続けたのです。民が神を裏切っても神は裏切らない。神はご自分の契約に忠実であられるのです。
イエス・キリストは裏切りません。どこまでわたしたちに対して誠実であられ、その十字架の血による契約に忠実であられるのです。このキリストの誠実を知る者とされ、わたしたちも人と誠実に生きようとするのです。「姦淫するな」と言われるイエスさまは弟子たちを愛し抜き、裏切られても愛し抜き、十字架で罪赦し共に生きようとされます。このイエスさまの誠実さを知る者として、わたしたちは誠実に誰かと共に生きようとするのです。アーメン
(2024年4月14日礼拝説教より)