札幌教会・日本キリスト(基督)教団・プロテスタント教会

北海道札幌市中央区にある伝統的な教会

聖書のお話し

「本当に、この人は神の子だった(棕櫚の主日)」

更新日:2024.4.1

マタイによる福音書第27章45-57節

小林克哉牧師

「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(46節)イエスさまは神の裁きを受け神に見捨てられ死なれました。すると、それまで黙っていた神が沈黙を破って働かれたと言うのです。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」(51-52節)
神が神殿の垂れ幕を裂かれるのです。神殿の一番奥にある至聖所は神の御臨在を示す場所で、人が入ることができないよう垂れ幕が下がっていました。罪人である人間の方から聖なる神に近づくことはできないのです。しかし神と人間との隔てである垂れ幕を破り、神の方から近づいて来られたのです。
神が岩を裂き、墓を開かれるのです。人間からは打ち破ることができない死を、神の裁き、呪い、滅びである死を、十字架により神が打ち破ってくださったのです。死の問題が解決する。死から命へと移されるのです。わたしたち人間には<命から死へ>という一方通行しかなかったのです。しかし<死から命へ>の道が開かれたのです。この罪の問題が解決され、死の問題が解決されるため、神は生きて働かれたのです。
人は「神さま、あなたはどこで働いておられるのですか。なぜいつも黙っておられるのですか。わたしが今だと思う時に働いてわたしの問題を解決してください。」と思うものです。御言葉は十字架を見よと言うのです。神を疑う日、どうしてと思う時、十字架を見上げればよいと言うのです。そこに神が生きて働いてくださる神であることが示されていると。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(54節)よくわかったかどうかは分かりません。しかしその出来事に恐れおののき、百人隊長たちは告白したのでした。わたしたちも百人隊長たちと共に告白し歩みたいと願うのです。アーメン

(2024年3月24日礼拝説教より)

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