「律法を完成する者(マタイ⑪)」
更新日:2024.3.25
マタイによる福音書第5章17-20節
小林克哉牧師
イエスさまは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(17節)と言われます。律法と預言者とは旧約聖書のことだと考えればいいでしょう。イエスさまは聖書を完成するために来られたのです。
旧約と新約全66巻で聖書です。上下巻で完結する小説の上巻だけ読んでも解決がありませんし、下巻だけでも何が起こったか分かりません。上下巻で一つです。旧約だけでもないし新約だけでもないのです。旧約だけではまだ完成していません。イエスさまが来られ、贖いの御業をなさり、それが宣べ伝えられ、新約があって聖書は完成するのです。
ある人がこの聖書の箇所を説明して、イエスさまは律法を完成し、わたしたちに義を与え天の国に入れてくださる。それはまたわたしたちの人生を完成してくださるのもイエス・キリストであるということだ、と言っていました。ファリサイ派の人たちは、自分の努力で律法を守り義とされようとした人たちです。そのようにして自分の努力で自分の人生を完成させ、天の国に入ろうとしたのでした。神に義であると認められ、あなたの人生はそれでよし、天の国にふさわしく完成したと言っていただこうと努力したのです。
わたしたちの人生はどのように完成するのでしょうか。合格、就職、成功、結婚、家庭を手にすることができたらでしょうか。わたしたちの人生には罪があり、問題や課題もあり、苦しみや嘆きの日もあるのです。しかしその人生が、イエス・キリストの十字架により贖われ義とされ、天の国に入れられる者とされるのです。イエス・キリストと出会い、イエス・キリストによって、わたしたちの人生は初めて完成するのではないでしょうか。
聖書を完成し、神の救いのご計画を完成するために来られたお方は、たしたちの人生を廃止するのでなく完成するために来てくださったお方でもあるのです。旧約だけでは未完であり、イエス・キリストの到来によって完成するように、わたしたちの人生もそれだけでは未完であり、イエス・キリストが来てくださることにより、イエス・キリストと一つとされることにより完成するのです。アーメン
(2024年3月17日礼拝説教より)