「見よ、天が開かれている(マタイ⑤)」
更新日:2024.2.13
マタイによる福音書 第3章13-17節
小林克哉牧師
能登半島地震で会堂全壊となった輪島教会のことを覚えて祈り続けています。絶望する現実の中で、牧師先生が希望をもって信徒の方々を励ましているとうかがいました。日本語で絶望のことを八方塞がりなどと表現します。ユダヤの民は天が閉ざされていると言いました。たとえ八方が塞がり、前にも後ろにも行けず、右にも左にも逸れることができなかったとしても天が開かれているなら希望があるということです。イザヤ書の預言は次のように言っています。「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」(イザヤ書第63章19節)
この預言が成就しました。神は天を裂き天から降って来られたのです。イエス・キリストによって来てくださったのです。イエスさまは洗礼を受けてくださいました。わたしたちのところまで身を低くしてくださったのです。その時、一つのことが示されました。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(16-17節)天が開かれているのです。あなたの上に、わたしたちの上に、天は閉ざされているのでなく、イエス・キリストによって天が開かれたのです。
どんなことがあっても、イエス・キリストにより天が開かれていることが分かるのです。どんなことがあっても、イエス・キリストによって天は開かれており、神は御自分の民を救われ、インマヌエル、神が我々と共におられることが分かるのです。イエス・キリストによって神がわたしたちを愛する子としていてくださることが、神の霊が注がれていることが、神の御言葉が告げられていることが分かるのです。わたしたちが毎週神の招きにより礼拝をささげていること、聖餐にあずかることはそのことを示しているのです。見てください。イエス・キリストにより天は開かれています。アーメン
(2024年2月4日礼拝説教より)