「友」
更新日:2023.12.11
ヨハネによる福音書 第15章11-17節
北広島教会 菊地啓示牧師
イエス様はいつも、どのような時にも、わたしたちと一緒にいてくださり、わたしたちを「友」と呼んでくださいます。「友」とは「共」にいるだれかであり、常に親しく交わるなかま、また志を同じくする人、道づれのことで、イエス様はわたしたちを「友」と呼んで、天国への旅路をいつも共に歩んでくださる御方なのです。
493番の「いつくしみふかい」という讃美歌の作詩者ジョセフ・スクライヴェンは、二度も婚約者に先立たれるという、大変な悲しみを味わった人でしたが、失望と落胆、孤独に苛まれながら、呻き絞り出すような祈りの中で主イエス様を仰いだ時に、深い慰めと完全な平安を与えられました。そして同じように嘆き悲しんで自分のことを案じている故郷の母を慰めるためにこの詩を作り、慈しみ深く共にいてくださる主イエス様を伝えたのだそうです。
わたしたち一人ひとり、まことの神様に造られた者、神様の御意志がなければ生まれてくるはずも無かった者ですけれども、神様に的を合わせて生きることの難しさを痛感するものです。だれもが自分では命の神様に戻ることができず、神様からの命に飢え渇く。罪とは「的外し」の有り様を言います。けれどもイエス様は、そのようなわたしたちが「・・・飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」(マタイ第9章36節)る「友」です。しかも憐れみと慈しみの心に突き動かされて、ついには全人類の罪をその身に担われ、十字架に架かってしまわれました。完全な犠牲の小羊として、イエス様はその聖なる血潮を流し尽くすことにより、全人類の罪の赦しを成し遂げられました。
教会はイエス様が十字架の上で流された血潮に覆われており、そこに招かれたわたしたち、それぞれ持ち味の違う一人ひとりの内側に、「友」なるイエス様は聖霊という御姿で宿っておられます。おでんの美味しさは「出汁」で決まりますが、教会もまた天から注がれて共にいてくださる聖霊の主が染み込んでいかれるほどに、それぞれの持ち味が素晴しく生かされ、互いに与えつつ分かち合う交わり、愛し合う交わりとされていくことでしょう。アーメン
(2023年12月3日礼拝説教より)