「生ける神に希望を置いて歩む」
更新日:2023.9.11
テモテへの手紙一第4章6-16節
小林克哉牧師
希望を何に、どこに置き、持っているのか。それによりその人の生き方、その共同体や国の在り方が決まります。希望がなければ人は生きていけません。日常的な小さな希望があり、人生をかける大きな希望があります。ある人の存在が希望になる場合もあるでしょう。それらの希望は一人一人違うものです。しかし誰にとっても変わらない希望があると聖書は告げるのです。
1878年11月25日、メソヂスト教会は札幌に伝道のための巡回区を設定しました(この日を伝道開始記念日としています)。当時の宣教師たちにとって、日本は八百万の神の世界であり、この日本で福音を宣べ伝えることは困難極まりないことだったでしょう。しかし福音を語り続けたのです。それに何の意味があるのか、何の役に立つのかと思われたとしてもです。労苦し奮闘しながら御言葉を宣べ伝え続けたのです。それは生ける神に希望を置いていたからです。そして1889年9月7日、札幌美以教会が創立されました。
よくわたしたちの教会では、先達の信仰を継承しようと言います。それはハリス宣教師から始まる伝道の幻と祈りを継承することでしょう。それは北海道伝道の一つの拠点としての祈りを持って歩むことです。それは、勿論全世代への伝道を力強く進めていくのですが、クラークから始まった青年たちの救いと献身のための祈りに生きることではないでしょうか。それは自分たちの力を頼り誇ることとは正反対の、神に希望を置く信仰を継承することです。
134年の間、わたしたちは御言葉を語り続ける労苦と奮闘に生き続けて来ました。その間には浮き沈みもありました。戦争の時期もあり、最近はコロナ禍も経験しました。今は少子高齢化により教勢は停滞しています。でも、だからどうだというのでしょうか。わたしたちは神に希望を置いて歩むのです。それ以外に何があり、それ以外に何が必要でしょうか。わたしたちは生ける神に希望を置き、教会創立135年へと向かう歩みをなしていくのです。
「わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。」(10節)アーメン
(2023年9月3日礼拝説教より)