「十字架によって愛を知りました(1ヨハネ5)」
更新日:2023.7.24
ヨハネの手紙一 第3章11-18節
小林克哉牧師
ヨハネは「愛を知りました」(16節)と言います。親が子を愛する愛。人が誰かを好きになる恋愛。互いを大切に思う友情や兄弟愛。それは教会に来なくても知る事ができるものです。ヨハネもそれらの愛を知っていたはずです。しかしここで初めて「愛を知りました」と言っているのです。それはイエスさまによってです。その愛の前では、それまで愛と思っていたものが色あせるほどの〝愛〟のことです。
子育て真っ最中の方と何気なく話をしていた時です。キリスト者となりそんなに長くない方でした。神さまの愛を知って、自分の愛の何と小さなものか、欠けているかに気づいたと言われました。親として、わが子のために献身的に生き、十分すぎる愛情を注いでいるように見える方でした。それでも神の愛の前には、子を愛する親さえも謙遜にされ、へりくだるのだと思いました。神の愛です。御子イエス・キリストにより示された神の愛です。イエスさまの愛です。命を捨てる愛です。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(16節)
わたしは教会に通うようになり、イエスさまによって〝愛〟を知りました。イエスさまがわたしの罪のために身代わりとなって死んでくださったというメッセージを聞き、親にまさる〝愛〟があることを知りました。そしてイエスさまを信じるようになったのです。
一方的に見返りを求めずに愛する〝愛〟です。わたしたちの自分の内からはとても出てきません。しかしイエスさまを信じる時、その〝愛〟に生きてみたいと思うように変えられるのです。イエスさまの愛を受け、イエスさまの愛に満たされるとき、わたしたちの内からイエスさまの愛があふれ出し、愛に生きる者へと変えられていくのです。〝愛〟に満たされ、わたしたちも〝愛〟へと一歩踏み出すことが始まっているのです。イエスさまにより一方的な見返りを求めない〝愛〟を知ったからです。アーメン
(2023年7月16日礼拝説教より)