「家族ともども喜ぶ(特別伝道礼拝)」
更新日:2023.7.3
使徒言行録 第16章25-35節
釧路教会
上原智加子 牧師
ギリシャに渡ったパウロとシラスは、最初に伝道したフィリピの町で、逮捕され、牢の中に入れられてしまいます。この町での宣教は今や、道半ばにして中断されてしまったように思われましたが、そうではなかったのです。パウロたちが犯罪人のように鎖につながれても、神の言葉はつながれてはいないのです(2テモテ2:9)。
真っ暗な、劣悪な牢の中で、パウロたちは腫れ上がって痛む体をかかえ、明日をも知れぬ身でありながら、彼らは一晩中、「讃美の歌を歌って神に祈って」(25節)いました。彼らは心から湧き出る、不思議な喜びに満たされて、神をほめたたえずにはおられなかったのです。それはイエスさまを信じる信仰によってもたらされたのです。イエスさまを信じるとは、神さまが独り子なるイエスさまを遣わし、このイエスさまの十字架によって、罪びとであるわたしを赦し、愛するわが子として受け入れてくださったことを信じることです。イエスさまによりわたしたちの天の父となられた神さまは、わたしたちのことをわたしたち以上によくご存知であり、その神さまにできないことは何一つないことを信じることでもあります。イエスさまを信じていた二人は、自分たちが今、捕らわれているこの地下牢までも、神さまは降りて来て、自分たちに寄り添っていてくださる、そんな神さまの愛に満たされ、神さまを喜び、賛美しないではおられなかったのです。
また牢の中で二人の讃美と祈りに聞き入っていた囚人たちも、神さまが本当に二人と共におられることを知らされて、神さまを信じる者へ変えられていったのです。さらに大地震のあと、自害するところをパウロに助けられた看守とその家族も、パウロたちから福音を聞いて、イエスさまを信じ、洗礼を受けたのです。家族ともども、神を信じるものとなったことを喜んだのです。イエスさまへの信仰は、このわたしだけを救うのではないのです。それは、わたしの家族も救う、信仰にほかならないのです。家族だけでありません。わたしの友人たちも、隣人も、わたしの国の人も、隣国の人たちも、世界中のすべて人を救う、信仰なのです。アーメン
(2023年6月25日礼拝説教より)