「主は十字架への道を行く(棕櫚の主日)」
更新日:2023.4.11
ヨハネによる福音書第12章12~26節
小林克哉 牧師
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(25節)イエスさまの決心を表す言葉です。イエスさまはご自分の命を憎み十字架への道を行かれます。わたしたちを永遠の命に至らせるためにです。
信仰とは、主イエスの決心、神の決意に、ただ信頼することです。あのお方が救うと決めてくださった。そうであるなら、何の心配もすることもないのです。ただ信頼すればよいのです。裏切る者が、従えない者が、それでも主に仕え従うことができるというのが信仰でしょう。「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(26節)のです。このイエス・キリストが、今もご復活し、わたしたちの直中におられる神です。
一世紀半前に伝道が開始した時、わたしたちの群れには教会の組織も建物もありませんでした。でもどうでしょう。先達たちが強い意志と決心をもって神に従ったからではなく、わずかな人々であっても生ける主が用い導かれ、ここに教会を建て、伝道の恵みを与え続けてきてくださいました。神がわたしたちに訊いてくださっているのは、「わたしを信じるか、信頼するか」ということです。
わたしたちに決心があるかとか、力があるかとか、そのようなことではないのです。無から天地万物を創造され、イエス・キリストを死人たちの中から甦らされ、終わりの日に新しい天と地を到来させる、全能の神が訊かれるのは、「わたしを信頼するか」ということです。
正直、わたしたちには力はないかもしれません。でも、だから何だと言うのでしょう。生ける神がおられます。主は生きておられます。神を見くびってはなりません。まるで神には何もできないなどと思ってはなりません。ただ人間の力、それに依り頼んではならないのです。今、わたしたちが本当に大切にしていかなければならないことは、生ける神を信じ信頼して仕え従っていくことです。主は生きておられます。わたしたちはその御業の目撃者とされるでしょう。棕櫚の主日から始まる2023年度の歩み、もっと神に信頼し、もっと神に期待しましょう。アーメン
(2023年4月2日礼拝説教より)